in the water

水に沈みつつ考える

ヌスビトハギの種。切れ目のない命。

庭にヌスビトハギが自生しています。
夏頃には薄紫とピンクの中間のような色の小さな花が咲きます。

f:id:kakuo3:20171228131549j:plain Photo by papatomom on VisualHunt.com / CC BY-SA

夏に写真を撮ったはずなのに見当たらないのでvisualhuntから。

花は大好きなのですが種がやっかいです。いわゆる「ひっつき虫」の一種で、その中でもかなり強力な部類。気づかないうちに服や靴に多量にくっついて、ひとつひとつ丁寧に取らないと容易に離れてくれません。それで毎年枯れた頃に刈り取っているのですが、今年は後半忙しく放置していました。

スタッドレスタイヤへの交換をしようと懇意にしている車屋さんの工場に連絡すると「今すぐ来たら待たずにできるよー」とのことだったので、急いで保管しているタイヤを車に積もうと庭をショートカット。すると、デニムとスニーカーにびっしりヌスビトハギの種がくっついてしまいました。たぶん何百個も。

仕方がないのでズボンと靴をはきかえて車屋さんに行きましたが、待っている間によく見るとズボンと靴と靴下に10個以上種がくっついています。「履き替えたのにいつの間に…」と思いながら種をとってゴミ箱に捨てました。その辺に撒いてあげたいところですが、たぶん家のヌスビトハギは外来種だと思うので。

それでもたぶん、靴についていた種とかは車屋さんの敷地内に落ちているかも知れません。そのうち雨で流されたりしてその辺に芽が出るかも。

家から車屋さんまでは数キロしか離れていませんが、種にとっては結構な距離でしょう。ひっつき虫となっている種子の役割を十分に果たしたということになります。ヌスビトハギの種は猫なんかもよくくっつけていますから、猫の行動範囲ぐらいは容易に旅するんでしょうね。それを繰り返せばすごいことになります。家の庭にヌスビトハギを見るようになったのは数年前ですが、きっと猫が運んできたのでしょう。

植物が枯れてしまった後も、種子が遠く旅をしてその生息範囲を拡大していくという様子というのはなかなか興味深いものです。綿のように飛んでいくもの、プロペラのように舞うもの、弾け飛ぶものや、地面に突き刺さるもの、水に浮かんで漂流するものなど、生息範囲拡大に資する形状になっている種子は挙げればきりがありません。

人間は時間を断面のように切り取って思考しがちな気がしますが、命は時間的にも空間的にも切れ目なく繋がっているのだよな、などと車屋さんの椅子に座って考えていたのでした。

探せば安価な供養方法はあるはず

天気予報では雪が積もると言われていたものの、夜が明けてみるとわずかに雪がちらつく程度でした。会社の周辺は急な坂が多いため、雪が積もると車では通れない道もあります。また、ご近所で商売をされている仲良しのご高齢の女性も雪が積もるとお店までのほんの短い道のりでも苦労されます。だから積雪は困るのですが、雪が積もったら積もったで諦めて景色に見とれてしまいます。

今日は雪景色を見られそうにもありませんが、以前積もった時に撮った写真でもアップしておきましょう。

※今日撮った写真ではありません。 f:id:kakuo3:20171227111334j:plain

意外と知られていないかも?安価な納骨

上の写真は、会社の近くにある日泰寺というお寺で撮ったものです。この日泰寺、もちろん仏教のお寺ではあるのですが、少し変わっていて特定の宗派のお寺ではありません。19宗派の管長が3年交代で住職を務める超宗派のお寺なのです。そもそもこのお寺、タイから贈られた仏舎利(お釈迦様のご遺骨の一部)を安置するために建てられたもので、どこの宗派が仏舎利をお預かりするかの論争に決着をつけるべく超宗派のお寺となったそうな。その内容はこちらに詳しいです(参照:覚王山日泰寺は普通のお寺ではないのです。)私は無神論者で信仰もありませんが、仏教徒の人であれば宗派を意識することなく通うことのできる特異なお寺ですね。

この日泰寺で見かける葬儀は比較的規模が大きく(というか規模が大きいものだけ目につくだけかもしれません)、参列者も多くてなかなかにお金がかかっていそうにも思えます(費用の詳細は把握していないのですが…)。しかし、日泰寺で遺骨を合祀してもらうのなら、そこまで高額な費用は必要ありません。日泰寺には仏舎利が祀られている奉安塔があるのですが、それと同じ場所に合祀してもらうという納骨方法があるのです。その納骨料(供養料を含む)は、遺骨一体につき5万円、先祖代々なら10万円となっています(2017.12.27現在 参照:覚王山日泰寺 《納骨のご案内》)。

5万円や10万円が安価といえるかどうかはわかりませんが、お墓を買うことに比べればかなり安いことは確かです。お墓を買う余裕がない人や、受け継いだお墓を維持するのが困難になった人にとっては、良い選択肢のひとつのようにも思えます。

日泰寺に限らず、お寺や霊園などの多くには共同供養塔の類があり、お墓を買うのに比べれば大幅に少ない費用で納骨することができます。

もっと安価であることが必要なのかもしれない

お寺によっては、共同供養塔への納骨は宗派を問わないということろもあります。ただ、特定の宗派を信仰してきた人からすれば少し抵抗感はあるかもしれません。その点では、超宗派で仏舎利も祀られている日泰寺は良い選択肢かもしれません(私自身が仏教徒ではないので感覚を理解していないとは思うのですが)。

ただ、遠方に住んでいる人からすれば、ご遺骨を日泰寺まで持参して納骨するためには相応の交通費や宿泊費がかかる可能性もあり、経済的負担を大きく感じてしまう場合もあるでしょう。郵送(今、遺骨を送る方法は基本的に郵便局のゆうパック利用以外ありません)での納骨を受け付けてくれれば良いとも思うのですが、送骨での納骨を受け付けているお寺は全国でもまだほんのわずかしかありません。

日泰寺に納骨したいけど遠くに住んでいて来られない、という人のためにご遺骨をお預かりして納骨を代行するのはどうかなあ、などと考えたりもします。多少の手数料はいただくと思いますが、納骨料にほんの少しだけプラスしていただくぐらいで済むような感じで。事前にお寺と相談しなければならないでしょうけど。

お金に余裕がある人にとっては簡単に理解できないこともあるでしょうが、仕事柄さまざまな人と接してきた私からすれば、わずかにみえる金額でも生活に大きな影響を与える場合もあるのです。そして、手元にある遺骨に関する想いが心の負担となって苦しんでいる人もいます。あるいは、歳をとって自由に動くことが難しくなり、身寄りもない方からすれば、わずかな距離を出かけるのも大変な負担ということもあります。

私からすれば、今生きている人が遺骨にかかわるお金などの負担で苦しむのは良くないことに思えます。故人もそんなことを望んではいなかったでしょう。それでもまだ、遺骨の取扱いについては社会的なプレッシャーがあるのも事実です。

現在散骨や粉骨のサービスを提供していますが、他にもできることがあるのではないかと考える日々です。

散骨粉骨代行サービスはこちら→ 散骨粉骨代行サービスのINORI(いのり) | ご遺骨の散骨・粉骨サービスを安価にご提供します

散骨に関する仕事のことなどをゆっくりと書いていきます。

はてなブログを始めました。ここでは仕事の話題を中心に、あまりヘビーになり過ぎない感じで記事を書いていきたいと思っています。

私は今、仕事としていわゆる散骨や粉骨に関するサービスを行っています。もともと葬送に関する仕事についていたわけではないのですが、自分自身の体験にくわえて、近時話題になっているお墓や遺骨供養にまつわる問題に触れるにつけ、この問題に対する関心が抑えがたくなりとうとう始めてしまったというのが正直なところです。

近所の墓地公園を歩きながら考えること

家からそう遠くない場所に広大な墓地公園があります。高台にのぼってみると360度お墓に囲まれ、その向こうに公園の森や遠い街並みが見えます。周辺は既に開発されきった街なのですが、墓地のおかげで緑が残っているともいえます。普段はほとんどお墓を訪れる人はありません。広大な一画に時々ひとりふたりの人影が見えるだけです。しかし、お彼岸などは墓参り墓参りの人でごった返し、車は大渋滞、墓地公園の外に出るのにものすごい時間がかかります。

墓地には建てられたばかりとおぼしき真新しいお墓も見られますが、それらの多くは小さく、お互いに肩を寄せ合うように建っています。お墓の値段が高いことも影響しているでしょう。小さなお墓でも永代使用料と墓石の施工価格だけで100万円を超えるのが通常で、他に毎年の管理料もかかります。代々のお墓を引き継いでいる人はまだしも、新たにお墓を建てる余裕のない人もいるでしょう。広い墓地公園ながら新たな敷地の確保は難しそうで、お墓の価格がそう簡単に下がるとは思えません。

また、お墓から遠く離れて暮らしている人の中には、そう簡単にお墓に来られない人もいるでしょう。近くにお墓を移転するのにも相当なお金がかかりますし、かといってお墓を放置しておくわけにもいきません。経済的な余裕があればどうとでもなりますが、そうでない場合の負担感は馬鹿にならないはずです。お墓があるのに管理料などを払わないで放置していると、墓地や霊園から連絡が入ります。これにきちんと対処しないとお墓は撤去されてしまいます。法律ではお墓の権利者に対する告知の努力をすれば、約1年後にはお墓を処分可能となるのです。放置されたお墓は無縁墓として撤去され、納骨されていた遺骨は共同供養塔などで供養され、もともとの敷地は新たな墓地として募集がかけられます。

無縁墓・無縁仏に関してはこちらで記事にしています。 sankotu-funkotu.com

お墓に関する考え、もっといえば死生観や宗教観は人それぞれです。慣習やしきたりと呼ばれるような社会的規範が強く作用していた時代には「当たり前」といわれていたことが、現代では通用しなくなっている部分もあります。特に人口は減り、人々の関係は希薄化している中で、ひとつのお墓に関係する人数は減少しているという現実があります。その人に経済的なゆとりがなければ、従来の慣習やしきたりは単なる重荷となってしまうこともあるでしょう。

選択肢があること、選択に対するプレッシャーがないこと

私自身は、お墓は先祖や個人のためにあるのではなく、今生きている人のためにあるのだと考えています。もちろん、霊魂のようなものを信じる人からすれば、お墓をそのように理解することは抵抗があるでしょう。私は霊魂の存在を信じてはいませんが、それでも先祖や故人の想いがあるとするなら、その想いは今生きている子孫や遺族の幸福を願うものではないでしょうか。私の現時点での個人的な考えでは、さまざまな理由で余裕がない人が負っている供養の悩みは、先祖や故人が与えているものではなく、ある種の社会的規範によるものではないかと思えます。

たとえば、遺骨を自分の希望で手元に置いている場合ではなく、遺骨の行き場なくて手元に置いている人の多くはその状態を心苦しく思っている人が多いと聞きます。極端な例では遺骨を置き去りにしたり捨ててしまう人もいますし、遺体や遺骨の引き取りを拒否する人もいますが、それはまだごくわずかです。故人への想いを抱えつつも、「当たり前」といわれる供養の方法をとれなくて苦しんでいるのです。

故人を悼むこと、弔うことにまで金銭的な問題がかかわらざるを得ないことに、私は疑問を感じます。

一方、台湾の台北市では、市民であれば誰でも無料で合同葬儀に参加でき、遺骨は市の用意した自然葬場所に埋めることができます。

また、スウェーデンには、公共墓地の中にミンネスルンデンと呼ばれる散骨場があり無料で利用できるようになっています。

参照:第1部 ミンネルスンドと葬送-4

文化や社会制度の違いがあるため簡単に日本と比較できませんが、お墓のあり方、追悼の仕方についての選択肢が広く用意され、また経済的な状況にかかわらず誰でもが利用できる方法があるという点で、優れていると私は感じます。

高齢化社会、多死社会となっていく日本において、お墓や遺骨供養のあり方は今後看過できない問題になるだろうと思います。誰もが安心して利用できる葬送の方法が広がっていくように、私自身勉強しながら少しずつ記事にしていきたいと思います。