in the water

水に沈みつつ考える

散骨に関する仕事のことなどをゆっくりと書いていきます。

はてなブログを始めました。ここでは仕事の話題を中心に、あまりヘビーになり過ぎない感じで記事を書いていきたいと思っています。

私は今、仕事としていわゆる散骨や粉骨に関するサービスを行っています。もともと葬送に関する仕事についていたわけではないのですが、自分自身の体験にくわえて、近時話題になっているお墓や遺骨供養にまつわる問題に触れるにつけ、この問題に対する関心が抑えがたくなりとうとう始めてしまったというのが正直なところです。

近所の墓地公園を歩きながら考えること

家からそう遠くない場所に広大な墓地公園があります。高台にのぼってみると360度お墓に囲まれ、その向こうに公園の森や遠い街並みが見えます。周辺は既に開発されきった街なのですが、墓地のおかげで緑が残っているともいえます。普段はほとんどお墓を訪れる人はありません。広大な一画に時々ひとりふたりの人影が見えるだけです。しかし、お彼岸などは墓参り墓参りの人でごった返し、車は大渋滞、墓地公園の外に出るのにものすごい時間がかかります。

墓地には建てられたばかりとおぼしき真新しいお墓も見られますが、それらの多くは小さく、お互いに肩を寄せ合うように建っています。お墓の値段が高いことも影響しているでしょう。小さなお墓でも永代使用料と墓石の施工価格だけで100万円を超えるのが通常で、他に毎年の管理料もかかります。代々のお墓を引き継いでいる人はまだしも、新たにお墓を建てる余裕のない人もいるでしょう。広い墓地公園ながら新たな敷地の確保は難しそうで、お墓の価格がそう簡単に下がるとは思えません。

また、お墓から遠く離れて暮らしている人の中には、そう簡単にお墓に来られない人もいるでしょう。近くにお墓を移転するのにも相当なお金がかかりますし、かといってお墓を放置しておくわけにもいきません。経済的な余裕があればどうとでもなりますが、そうでない場合の負担感は馬鹿にならないはずです。お墓があるのに管理料などを払わないで放置していると、墓地や霊園から連絡が入ります。これにきちんと対処しないとお墓は撤去されてしまいます。法律ではお墓の権利者に対する告知の努力をすれば、約1年後にはお墓を処分可能となるのです。放置されたお墓は無縁墓として撤去され、納骨されていた遺骨は共同供養塔などで供養され、もともとの敷地は新たな墓地として募集がかけられます。

無縁墓・無縁仏に関してはこちらで記事にしています。 sankotu-funkotu.com

お墓に関する考え、もっといえば死生観や宗教観は人それぞれです。慣習やしきたりと呼ばれるような社会的規範が強く作用していた時代には「当たり前」といわれていたことが、現代では通用しなくなっている部分もあります。特に人口は減り、人々の関係は希薄化している中で、ひとつのお墓に関係する人数は減少しているという現実があります。その人に経済的なゆとりがなければ、従来の慣習やしきたりは単なる重荷となってしまうこともあるでしょう。

選択肢があること、選択に対するプレッシャーがないこと

私自身は、お墓は先祖や個人のためにあるのではなく、今生きている人のためにあるのだと考えています。もちろん、霊魂のようなものを信じる人からすれば、お墓をそのように理解することは抵抗があるでしょう。私は霊魂の存在を信じてはいませんが、それでも先祖や故人の想いがあるとするなら、その想いは今生きている子孫や遺族の幸福を願うものではないでしょうか。私の現時点での個人的な考えでは、さまざまな理由で余裕がない人が負っている供養の悩みは、先祖や故人が与えているものではなく、ある種の社会的規範によるものではないかと思えます。

たとえば、遺骨を自分の希望で手元に置いている場合ではなく、遺骨の行き場なくて手元に置いている人の多くはその状態を心苦しく思っている人が多いと聞きます。極端な例では遺骨を置き去りにしたり捨ててしまう人もいますし、遺体や遺骨の引き取りを拒否する人もいますが、それはまだごくわずかです。故人への想いを抱えつつも、「当たり前」といわれる供養の方法をとれなくて苦しんでいるのです。

故人を悼むこと、弔うことにまで金銭的な問題がかかわらざるを得ないことに、私は疑問を感じます。

一方、台湾の台北市では、市民であれば誰でも無料で合同葬儀に参加でき、遺骨は市の用意した自然葬場所に埋めることができます。

また、スウェーデンには、公共墓地の中にミンネスルンデンと呼ばれる散骨場があり無料で利用できるようになっています。

参照:第1部 ミンネルスンドと葬送-4

文化や社会制度の違いがあるため簡単に日本と比較できませんが、お墓のあり方、追悼の仕方についての選択肢が広く用意され、また経済的な状況にかかわらず誰でもが利用できる方法があるという点で、優れていると私は感じます。

高齢化社会、多死社会となっていく日本において、お墓や遺骨供養のあり方は今後看過できない問題になるだろうと思います。誰もが安心して利用できる葬送の方法が広がっていくように、私自身勉強しながら少しずつ記事にしていきたいと思います。